昭和43年6月12日 夜の御理解
これは、毎月、教報(?)として本部から教会にまいります。これはいわば本部の動き、教師だけが知っておかなければならないといったような様様な動きやらが(?)これにある日の教話というのが載っておる。最近私思いますのに、例えば苦しい中に喜びが湧くなんていうような、最近、本部あたりでは取り上げられないような感じがするですね。苦しいことは苦しい。そこを辛抱していきよったらこういうおかげを頂いた、それの方が人間的だというような風に(?)られるそうですね。確かにおかげは受けておられます。けれども、それではお徳にならない。信心はどこまでもやはりなるほど苦しい。苦しいことは苦しいけれども有り難い。いうならば、もうちっと苦労がしてみたいといったようなその苦労の喜びといったようなものがやはりその希薄に薄くなってきておる。ね。これはもう、(?)本当に涙が出るような苦しい修行をなさっておられるのですけれども、やっぱり苦しいことは苦しいで通っておられるのですね。
これはあの、「おかげは和賀心にあり」というのは、(?)といったようなものではないと。いわゆる自分の心一つでおかげを頂くといったようなその、ですから、確かにそうですね。あの、一つ難儀な問題をここにまあ一つ例が挙げておられますけれども、大変酒乱の主人が三年間、これは信者さんの話ですね。その、お酒を飲まないときはよかばってん、お酒を飲んだら非常に乱暴になる。それから信心をさせて頂いて、一里あまりの道を三年間お参りをし続けた。ところがその、どうしても止まなかったけれどもまあある時にふっと気がついてから「主人の酒を止める止めるようにとこう思うておる事は間違いであったと。好きな酒なら好きな酒でやっぱり飲んでもらおうと。けれども、いわゆる乱暴なことだけはせんように、いって、そこんところをお願いさせて頂こうと気がついたらそれから、乱暴はしなくなった、お酒も飲まないようになった」というその話なんですよ。ね。それだけなんですよ。それはやっぱ和賀心ですよね。自分の願い事一つでもです、自分のそういう和賀心で願いの本筋に(?)おかげを頂くのです。これは一つの願い事ではない、何にも本筋に触れる、言うなら心がね、どうぞ酒を飲まんように飲まんようにというのじゃなくて飲んでも乱暴せんようにという願いであったら、神様に通うたというわけなんです。なるほど、和賀心。けれども私が言う、おかげは和賀心というのはね、もう私が言うおかげというものはお徳。もちろんおかげも頂(?)ですけれども、ですからそこのところをそういう、和賀心も同時にこの和らぎ喜ぶ心というのも同時にそういう中に開かせて頂けれるというのですね。
これ本当に復員して帰ってみえられてから、40年間(?)教会にね、もう日に一人か二人しかお参りがない。それにその、先代の教会長であるお母さんと二人でそういう、そのともかく、食べるに食べられないといったような難儀な中にまあ、色々修行させて頂いて(?)その信者が見かねてから(?)ようなところまで行った。けれどもまあ、そこを辛抱した。けれどもそこんところの苦しいという事だけが(?)もうこれで修行を止めようか、勤めにでようかといったような苦しい中になんとはなしに道が開けてきて現在ではあの、まあ、(?)小さい教会をたてなおさせて頂いておかげを頂いたというそのおかげ話なんだ。だからこれはもう本当におかげ話にしかすぎない。ね。だから確かに金光様の先生方だけにしか(?)あの、私本当、これはあのあの時に徳を受けたのだろうといったような信心が本当に、またそれがなされていく稽古でなからなければならんと思うですね。
確かにあの、苦しい苦しいなかにでも辛抱しぬいていくうちにおかげが受けられるというのではなくてですね、私が申しますのはもう、40、40年も前に(?)教会で親先生が私がお参りしたときに新聞を読んでくださった。お道の新聞。そのときにその、頂いた、若いお道の先生のお話ですけれどもね、本当にそれとこれとを思い浮かべてね、それこそ、なんと申しましょうかね、40年前の信心にはこういうものがあったと。現在にはこういう風に信心が変わってきておるような気がするのですけれどもね、どうしても道が開けない。開けないからもう、若い先生のお里から、(?)引き揚げて帰ってきて、そして、(?)そしてぼちぼち信心を続けてっとこう兄さんが言うて下さったときに、もう、兄さんご親切は有り難いけれども、僕はもう少しもうちっと苦労がしてみたいというというて、言われたと言う話を私は修行の時分に頂いたのですけれども、それを今でも忘れられませんけれどもね、もう、もう少し苦労がしてみたいというようなその、徳が身についていきよることが感じられるような信心ですね。これはやっぱり苦しい事は苦しいけれどもそれを網一段信心が本気にならせていただくそこから、苦しいけれども信心の喜びが頂けれる。
ね、信心の喜びがです、ね、辛抱になってのおかげになったらこれはいわゆる、まあ、辛抱の徳だと、徳であろう。と言う風に思うのですね。これを読ませて頂いてそれを感じたのですけれども、なるほど、一般のラジオ放送なんかももう、例えば苦しい中にも喜びが湧くなんていったようなその話ではなるほど(?)の方が受け入れられないはずだろうという風に思う。お道の教師に( ? )しかりであるから、ね、とにかく苦しいことの連続、苦しい苦しい時にはやっぱりまあ歯を食いしばって辛抱しておる。( ? )それがだんだんおかげを頂くようになったという風に、話がこれがお道の教師に聞かせる話としてここに出ておるというところがですね、本当に信心がそれこそ、(?)とでも申しましょうかね、40年前に聞いたいわばお道の新聞に出ておったその若い先生のお話と、今日ここに出ておるこの方の先生のお話と(?)。方一方はただおかげを頂く。辛抱しておかげを頂いたということだけである。片一方は辛抱していくうちに確かに信心の徳を身につけられるんだという、おかげ話もそんなに変わってきておる。合楽の場合はもちろん徳を受けるほうのところを私も受けたいし、皆さんもそこんところ苦しいだけじゃいかん、苦しい中に喜びが頂けれるところまで信心修行を進めて(?)申しておるわけですけれどもね、それこそある日の教話の中からそんな風に今日は私感じた。
どうぞ